His Story 10
ロサンゼルス店時代 1999-2002 part4
2001年9月11日。
朝、出勤しようとすると電話がなりました。同僚が切羽詰まった声で「今すぐTVを見ろ!」と言います。慌ててTVをつけると、ニューヨークが煙に包まれています。状況を理解できないでいると、ニューヨークでテロがあったと同僚が説明してくれました。
空港はすべて閉鎖。主要都市には避難指示が出ていて、なるべく自宅にいるように言われているみたいです。とはいえ、お店に行かねばと思い、車に乗りました。いつもは渋滞して1時間くらいかかる道のりも、フリーウェイはガラガラだったため、30分もかからずに店に着きました。私はいつも出勤する車の中ではラジオをかけていたのですが、普段は陽気なDJもしきりに「愛する人のそばにいなさい」を連呼しています。
お店に着くと、何人か出社していて、状況がよくわかっていない私に説明してくれました。世界貿易センタービルの2棟ともに飛行機が突っ込み倒壊したこと、当初は連絡の取れない飛行機が数機あり、そのうちの何機かがロサンゼルス行きであったこと。なので次の標的がロサンゼルスになるかも知れない不安があったこと。そのため都心部には避難要請が出ていること、ニューヨーク支店とは連絡が取れないこと、などなど‥‥。
ロサンゼルスとニューヨークには時差が3時間あるため、ちょうど夜中だった日本の方がオンタイムで情報が入っていたかと思います。スタッフも何人かは出社できない状況だったので、一旦お店は開けたのですがすぐに閉めて、全員自宅で待機をお願いしました。私は、日本からの連絡があると思い店に残りました。
ニューヨーク店へは何度も電話をすれど、なかなかつながりません。私は店の奥から古いテレビを引っ張り出して、誰もいなくなったお店で一人テレビを見ていました。どの局も通常のテレビ番組は全てキャンセルしてテロの情報を流しています。
時々、太平洋戦争時の日本軍による真珠湾攻撃の映像が流れます。その映像を見ていて、思いました。そういえばアメリカは建国以来、アメリカ本土に攻撃を受けたことはありません。本土ではありませんが、真珠湾しか攻撃されたことはないのです。そしてどちらも奇襲攻撃です。アメリカ人にとっては真珠湾を想起させた大きなショックであったことは間違いがないようです。
日本の本社経由でニューヨーク店のスタッフの無事は確認できましたが、当面の間営業はできないとのことでした。わさわさした気持ちのまま、家へ帰るために車を運転していると、いつも通る消防署の前に人だかりができています。みな手にキャンドルを持っています。犠牲になったニューヨークの消防隊への追悼のために集まっているのでした。
あの日から、アメリカは変わってしまったような感じがしました。ようやく再開した空港は大きな銃を構えた兵士が警戒をし、国内線は搭乗口まで迎えに行けなくなりました。セキュリティが異常のほどまでに厳しくなり、国際線への搭乗は最低でも3時間前くらいには搭乗手続きを終えていないと乗れないくらいに時間がかかりました。
どうしてそうなったのかよくわからないまま、アフガニスタンに報復攻撃が始まりました。テロの日にロサンゼルスでの公演をキャンセルしたマドンナは、「報復は報復を呼ぶ」と非難していました。その混乱のまま、2023年にアメリカはアフガニスタンから撤兵しました。
テロの日から半年後にニューヨークに出張で訪れました。友達が夜にグランド・ゼロと呼ばれていたワールドトレードセンターの跡地へ連れていってくれました。当時はまだ立ち入りが規制されていて、そこの周囲だけがビルの灯りもつかず、真っ暗でした。2本のサーチライトが真っ直ぐ夜空に向かって伸びていて、そこにあったビルの面影を残しているのでした。
そのニューヨーク出張から帰ってきた日に、日本への帰国指示が出たのでした。
続く
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