His Story 23

月日は流れ、私は40歳になろうとしていました。

40歳も目前になってくると、徐々にこのままで良いのかと思うようになってきました。経済的にも苦しくなってきて、旭屋書店退職時にあった貯金を切り崩しながらなんとか凌いでいました。

同年代との人の差もだんだんと明らかになってきて、元々、人と比べることでしか自分の立ち位置を認識できない弱さのある自分にとっては、辛くなったり、人生を恨んだり、人のせいにしたりする時間が増えてきました。

中年にもなってくると、だんだんと体の不調も出てきます。当時、通っていたお医者さんに勧められて、カウンセリングを受けたりして、今の状況を改善する取り組みをしたり、交友関係を広げたりしてみましたが何も変わりませんでした。

これだと思う道に、真面目に取り組むのですが、結果、何も変わらないのです。いつもこの限界感にやられてしまうのです。

元々外面のいい人間だったので、周りに自分がそのような心境であることを知られることはなく、私も情けない自分を知られたくなくて、人に心を開くこともしませんでした。

しかし、ある人からこのままでは大変だろうから、ジュンク堂に正社員にしてもらったら、と助言をもらいました。そして慰安旅行で同室となった上司に相談してみたのです。

この頃、まだジュンク堂は慰安旅行が毎年実施されていて、3年に一度、豪華な旅行に連れて行ってもらえていたのです。その年は台湾でした。契約社員の私も連れて行ってもらえるのです。もう、今はそんな贅沢は考えられませんが‥‥。

上司に相談しましたが、はぐらかせられてしまいました。私はどうもジュンク堂にとっては適切な人間ではなかったようです。落ち込むかと思ったのですが、台湾旅行は楽しむことができて、日本に帰ってきてからじわじわと何かが迫ってくるような感じでした。

さて、この先はどうしようか‥‥。ここにずっと契約社員でいるのか‥‥、この安い給料で? 転職するにも何の特技もない、学歴も、いったい自分は今まで何をやっていたんだろうか。そんな心境でした。

飛び出すような勇気も自信もなく、とりあえずいい人といい顔を作っておいて、心の中は自分を見失って、仕事も適当、文句ばっかり。たまに楽しいことを繋ぎながら、全てが良くなるブレイクスルーの瞬間を待つだけでした。

実はロサンゼルスから帰国した頃から、うまく眠れなくなってしまい。ずーっと薬がないと眠れない状態になっていました。「うつ病」と軽々しく診断されるお医者さんは困るので、何度かお医者さんを変えていたのですが、割といろんな話を聞いてくださる、良いお医者さんと会うことができて、ある時、「茶のみ友達でいいから、異性の友達を作りなさい」と助言されました。素直な私は、その通りにしました。しかも1人ではなく、数人作りました。

でも、確かに茶のみ友達はできて、いろんなところに出かけ、楽しい時間は過ごせるのですが、それ以上に進展することはありません。どうしても極端に自信が持てず、いい感じになってきても、気持ちが引いてしまいます。まぁ、でも私は、自分で言うのもなんですが、話が聞き上手で、相手の悩み事に真剣に耳を傾けるので、信頼を得やすいことに気がつき始めるのです。

そういえば、私は高校生の時から、よく女性の恋愛相談を聞いていました。私は男子校だったので、アルバイト先の同年代の女の子が中心でした。私はアドバイスができるわけではないのですが、ただ、ふんふんと話を聞いていたのです。当時は携帯電話などなく、家の固定電話にかかってくるので、長いコードを買って自室まで電話を引っ張ってきて、数時間お話しを聞いていました。この頃の若い子あるあるで、親から長電話するな!と怒られていましたが…‥。

私が数人の女の子の話を聞いていることを知った自称モテ男が「なんで恋愛経験のない野坂に相談するんだ。俺に聞けば教えてやるのに」と言っていたそうです。違うんです。みんな解決して欲しいわけではないのです。ただ聞いて欲しいだけなのです。女性は特に。今考えて見れば、とてもよくわかります。

あの頃、自覚していれば、もっと楽しい青春時代が送れたのかなぁ、なんて思ったりしてしまいます。高校生の自分に、アドバイスしてあげたいです。

話がそれてしまいましたが、相変わらずの生活を変えるために何ができるのかな、と考えました。就職活動が妥当かもしれませんが、それも自信がありません。一歩踏み出せない原因のひとつに自分が高卒だから、というのがありました。

私には、高卒という学歴コンプレックスがありました。私が通っていた高校はある私立大学の高等部でした。なので、内部推薦があり、その大学の外国語学部に進学する予定でした。しかし、その私立大学は関西でも有数の学費が高い大学で、準備しなければならない金額を見た時、「こんなお金は家にはない」と思って、他の大学を受験したのです。

元々、大学へはエスカレーター式に行ける高校だったので、クラスメートのほとんどは勉強しません。そんな中で受験勉強を始めたのですが、付け焼き刃で合格できるほど、大学受験は甘くありませんでした。当然の如く失敗しました。でも、志でもあれば浪人して大学受験を目指せばよかったのですが、そんな気力も失ってしまい、私は建築士の親戚の勧めで、建築の専門学校へ進学したのです。

旭屋書店に入ってから、一度、佛教大学の通信課程に挑戦しました。が、仕事との両立ができずに失敗。さらにもう一度、佛教大学の通信課程に再入学しましたが、ロサンゼルスに転勤することになり、休学しました。そしてそのまま退学しました。

今なら行けるかもしれない…‥。

そう、思って、3度目の挑戦で大学へ通うことに決めました。41歳という年齢だったので、順調に4年で卒業できても45歳…。考えると嫌になりましたが、とりあえずやってみることにしました。


以前のブログはこちら→https://tukuyomi.info/blog/

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